留学生・横田等のロサンジェルス・ダイアリー =6= 8月21日 月曜日


    グレイスさんが週末にカネをどこでどう工面したかは見当もつかないけど、社員たちはみな、きょう、小切手を受け取ることができた。
    だれかの分が不渡りになる惧れはまだ残っているにしても、まずは、やれやれという結末だ。
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   それにしても、会社でのちょっとしたエピソードの背後にあれだけの、つまり、ほら、時の流れとともに移り変わってきた日米関係や、アメリカに渡ってきた日本人とその子孫たちの暮らしのドラマが、どのページからも見えてくるような、そんな歴史があるんだから、すごいよね。
   いや、もちろん、『毎日』や『朝日』、『読売』にもそれぞれ会社の歴史はあるわけだけど、そういうのが、皮張りの厚い表紙に金文字でタイトルが書いてある分厚い本の中にいかめしく納まっているって感じなのに対して、『日報』の歴史は剥き出しで、温かくて、そう、そこで人が生きてるって、そんな感じがしない?
   僕は何か新しいことを知るたびに、〈ああ、僕はいま歴史の中にいるんだ〉〈日本人移民の生きた歴史の中で仕事をしているんだ〉と思って、ずいぶん感動してしまうんだよ。…自分はたまたま南カリフォルニアにやってきている留学生でしかないんだ、ということを忘れてしまってね。
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   と、そこまでしゃべったところで、ふと思ったんだけど、僕がいま働いているのがかりに(『日報』でなくて)『日米新報』だったとしても、僕はおなじように感じていただろうか?おなじ感動を味わっていただろうか?
   『新報』については表面的なことしか知らないわけだから、はっきりしたことは言えないよ。でも、どうも違うんじゃないかって気がするな。
   つまり、(日本からの移民が集中した北・中・南米、それにハワイがほとんどを占めているにしても、とにかく)世界に十数紙はあるらしい海外日本語新聞社の中で〔経営の優等生〕といわれている『新報』では、僕はそんなふうには感じていなかったんじゃないかな。
   というのは…。どうやら僕は、〔判官びいき〕というと、なんだか、江波さんが好んで使いそうな言葉で、古くさい感じがするし、ちょっと違ってもいるようだから、言い直すことにすると、そう、〔マイナーびいき〕、野球でいうなら〔アンチ・ジャイアンツ〕タイプみたいなんだ。…二代つづけて経営者に人を得なかったからそうなったというだけで、同情することなんか、ほんとうは、ないはずなんだけど、『日報』がいま、変化する時代にうまく対応できずに四苦八苦しているところが、みょうに気の毒に思えてしまうし、そんな会社でいま自分が働いているってことに、なぜか、すごく満足しているんだよね。
   幼いころからずっと、ちょっとできの悪い末っ子だった僕には、そんな環境がかえって居心地よく感じられるのかな?
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   もちろん、給料の小切手が不渡りになるのは嫌だよ。だけど、おかしなことに、〈この小切手はちゃんと現金になってくれるんだろうか〉なんて思いながらそれを受け取るのは、スリルがあって、悪くない気分なんだよ。…タイピストの井上さんに〈あなたは結局、おカネに不自由しない家のお坊ちゃんで苦労したことがないから、気楽にそんなことがいえるのよ〉なんて叱られそうだから、声に出しては、そんなこと、絶対に言わないけど。
   ほら、『日報』って、荒波の上で沈みかけている(船長がいないも同然の)船を、操縦法も行く先も分からないまま、船員たちがみなでなんとか走らせている、みたいな危ういところがあるじゃない。いや、企業としては、そんなことじゃだめだと思うよ。でも、ここでは、半年間しか働かないつもりだった僕みたいな者でさえ、〈ああ、自分もいくらかは助けになっているんだ〉って実感することができるし、それに、そんな危うさの中で働いている人たちって、みんな、なかなか魅力的なんだよね。…『日報』には(今村徳松が築いた、コミュニティーに支持された)あれだけの輝かしい歴史があるのに、こんなことになってしまって、なんて感傷的な気分で見るから、余計にそんなふうに見える、という面もおおいにあるんだろうけど。

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(ストーリー中の人物、企業、団体などはすべて創作されたものです)

*参考著書*
アメリカの日本語新聞」田村紀雄(新潮選書)
「藤井整の言論活動 - 『加州毎日』創刊から日米開戦まで」関宏人(慶応大学卒業論文

  <無断転載・コピーはお断りします>

留学生・横田等のロサンジェルス・ダイアリー =7= 8月22日 火曜日


   昨夜はほんのちょっとしゃべっただけで終わってしまった。…九時少し前に、このホテルの住人の一人である柴田さんが僕の部屋にやってきて、それっきり、カセット・レコーダーに向かうことができなかったから。
   柴田さんというのは、全部で三十五室あるこのホテルの、僕とおなじ二階に、あいだで何度も出入りをくり返しながら、もう十年間近くも住みつづけているという、四十歳ぐらいの、背の低い、肉づきのいい、独り者の〔スシマン〕だ。長く住んでいるし、年も取っているほうだから、自然に(僕が密かに〔エスメラルド・ホテル日本人会〕と呼んでいる)十五人ほどいる〔常住〕日本人たちの世話役みたいになっていて、ときどき僕にも〈いまから下(のロビー)で、みんな集まってビデオを見るから、横田君、君もどうだ〉などと声をかけたりしてくれるんだよね。
   ビデオの中身は、たいがいは日本の最新人気ドラマ。僕は自分で借りたことがないから、確かなことはいえないんだけど、そういうのは、日本で放送されてから一週間後にはもうリトル東京(だけじゃなく、南カリフォルニア中の日本人相手)の貸しビデオ店の棚に並んでいるんじゃないかな。…著作権なんか無視して不法にコピーしたものみたいだけど、そんな貸しビデオ店がリトル東京にだけでも何店もあるんだから、日本語ビデオへの需要の大きさが知れるよね。
          ※
   ところで、知り合いに誘われて一九八〇年代の初めに日本からカリフォルニアにやってきたという柴田さんが、この十年間ほど、このホテルに入ったり出たりしているのには、ちょっとしたわけがあるんだ。
   柴田さんは、その年齢からもだいたい想像がつくように、〔すしを握りだしてから二十年〕というベテランのスシマンだ。だから、こちらでは、働き口はいくらでもあるらしい。
   というのは…。もともと、二十年ほど前からアメリカ人のあいだで日本食、特にすしの人気が高まっていたところへ、一九八〇年代になると、日本から新たに渡ってくる日本人の数が急増し、それに合わせて〔スシバー〕つきの日本食レストランが(カリフォルニアはいうまでもなく)全米各地に次から次へと店開きした。だから、アメリカ中でスシマンが不足し始めた。…レストランの中には、間に合わせに、日本人留学生にすしを握らせるところまで出てきたそうだ。
   いや、日本の〔バブル経済の崩壊〕後は、アメリカの日本食レストラン業も当時ほどには景気がよくないらしいんだけど、それでも、慢性的なスシマン不足は解消していないんだって。だから、柴田さんぐらいのベテランになると、〔引く手あまた〕なんだそうだ。
   ホテルの玄関わきにある、みんながロビーと呼んでいる部屋で二か月ほど前に(たまたま二人だけになったとき)柴田さんが話してくれたところによると…。そういう背景があるものだから、スシマンは概して、おなじ店で長くは働かない。給料や労働時間に不満があったり、仕事のやり方について経営者と考えが合わなかったりすると、すぐにやめてしまう。やめても、すぐに次の働き口が見つかるんだ。柴田さん自身も(「こっちに来てからしばらくはオレも、修行と思って辛抱するようにしていたけど」)三十歳を過ぎてからは、一つところで長く働いたことがないそうだ。
   「だけどね」。あのとき、柴田さんはそうつづけた。「オレはちょっと違うんだよ。オレは不満があってやめるんじゃない。オレが短い期間働いただけでやめちゃうのは、横田君、なぜだと思う?」
   僕は首を横に振ってからたずね返した。「なぜなんですか」
   柴田さんはこう言ったよ。「ほら、アメリカは大きいんだよ。場所によって、景色も人も人情もずいぶん違うんだよ。あちこち見ておきたいじゃない。一つの店で長く働いていたら、ほかのどこかが見られなくなるわけだろう?」
   「そういえば」と僕は応じた。「僕がここに来たころは、たしか、テキサス州サンアントニオでしたよね。戻ってこられて一か月も経たないうちに、フロリダ州のマイアミに行かれて…」
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   こういうのを(ある種の)偏見というんだろうね。…額に手ぬぐいを巻いてスシバーの向こう側に立つと様になりなりそうではあるものの、ずんぐりとした体形の、かなり髪が薄くなっている柴田さんからそんなスケールの大きな、というか、自由の香りがする、というか、夢のある話を聞かせられようとは想像もしていなかったから、僕はなんだかみょうに心打たれてしまったよ。
   だって、日本で、たとえば、盛岡、高知、松江と数か月ごとに転々とした、と聞くと、〈この人、ただ飽きっぽいだけなんじゃないかな。そうじゃなきゃ、よほど腕が悪いとか、客への愛想が悪すぎるとか…〉なんて、あれこれ悪い方へ想像をめぐらせてしまいそうだけど、アメリカでサンアントニオ、マイアミと聞かせられると、なぜかすなおに〈かっこうがいいな、そういうの〉みたいに受け取ってしまうじゃない。…僕だけ?
   僕が感動したのを見て取ったのか、柴田さんは一度、満足そうにうなずくと、こう言った。「だから、オレはもう、この近所じゃ働かないことにしている。南カリフォルニアは大方見てしまったからね。いまは、シカゴのどこかの店に空きが出ないか待っているところなんだ」
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   僕は半ばうっとりしながら、〈へえ、次はシカゴか〉と思ったよ。…シカゴは、ハリソン・フォードが主演した映画[逃亡者]の舞台となっていた都市だから、映画の中の場面をいくつか思い浮かべながら。
   柴田さんはもともと、遠いところでの仕事をこんなふうに探していたんだって。
   ロサンジェルスにいるあいだに、日本語新聞などに掲載されている求人広告を一週間ごとぐらいの間隔で見る。…柴田さんは僕に遠慮して〔日本語新聞〕と言ったんだけど、『南加日報』にそんな求人広告が出ることはめったにないから、これは事実上『日米新報』のことなんだよね。
   で、広告が一か月以上掲載されっぱなしになっているか、〈あれ、この店、また募集している〉という店があったら、そこに電話をかけてみる。そういう店は(柴田さんが苦笑混じりで言ったところでは)〈店主の性格が悪くて人が居つかないことがほとんどで、とにかく、切羽詰っていることが多いから〉たいがいはすぐに〔次が見つかるまでのつなぎでいいなら〕という柴田さんの条件をのむ。週休はつづけて二日もらう。往復の旅費と、働いているあいだの住居費も店に持ってもらう。…初めから、従業員用の部屋を用意している店も多い。長く働く気はないから、店主の性格は気にとめない。
   その町、その都市、その地方を十分見たと思うと、次のスシマンが見つからないうちでもさっとやめて、ロサンジェルスに戻ってくる。そういう店はたいてい、スシマンに突然やめられることに慣れていて、引きとめようとはあまりしないんだって。…働いているあいだは、休みの日にレンタカーを借りて狂ったようにあちこち見て回るから、ふつうは三、四か月もすれば〔十分見た〕という気がするそうだ。
   柴田さんは、でも、ここ数年間は、求人広告を見なくなった。その必要がなくなったんだって。「この世界は狭いし、そんな働き方をすることで、オレ、有名になったのかね。次はどこそこで働きたいなんてだれかに話して、しばらく遊んでいると、不思議だね、どこでだれに聞いたのか、店の方からオレに電話をかけてくるからね」ということだったよ。
          ※
   その柴田さんが昨夜僕の部屋のドアをノックしたのは、だけど、ビデオを見ようと誘うためじゃなかった。僕の顔を見ると柴田さんは眉をひそめながら、こう言った。「秀人が指を骨折したらしいんで、君の車で病院に連れて行ってもらえたら、と思ってね」
          ※
   秀人君というのは、姓は小堀。僕よりちょっとあと、四月の中ごろからこのホテルに住んでいる(ふだんは)口数の少ない十九歳の男の子だ。東京のある私立大学の電子工学科を受験して失敗したあと、来年に向けた受験勉強にとりかかる前に、(一度訪ねてみたいと中学生のころから思っていた)アメリカを(高校時代に近所の酒屋で配達のアルバイトをして貯めていたカネを使って)一か月ほどかけて見ておこうと思い立ち、まずは、最初の訪問地、ロサンジェルスにやってきたんだけど…。
   もう八月も終わりに近いころだから、〔一か月ほど〕は〔四か月ほど〕の間違いじゃないかって?
   そこなんだよね。…でも、それ、間違いじゃないんだ。
   もともとの計画では、秀人君のロサンジェルス滞在は五日間で終わることになっていたんだって。次の訪問予定地はニューオリンズ。あとはワシントン、フィラデルフィア、ニューヨーク、(可能ならボストンを挟んで)最後はサンフランシスコと、旅行のコースもいちおうはちゃんと決めてあって、五月の中ごろには日本に戻っているはずだったんだ。ところが、(日本の旅行ガイドブックで知った)このホテルに宿を取り、あちこち見物し始めてみると、秀人君はロサンジェルスがすっかり気に入ってしまった。ホテルの住み心地も悪くなかった。
   秀人君は予定表からまずニューオリンズを、数日後にはワシントンとフィラデルフィアを外した。たちまち三週間が過ぎた。ニューヨークにも行く気にはならなかった。またいく日かが経ち、サンフランシスコから日本へ発たなきゃならない日が迫ってきた。だけど、秀人君は動かなかった。ロサンジェルスにとどまりつづけた。
   〈いくら〔気に入ってしまった〕と言ったって、来年また日本で受験するつもりだったら、いつまでもここでぶらぶらしていちゃよくないんじゃないか〉とだれだって思うよね。だから、六月の初めごろだったかな、(余計なことだと感じなかったわけじゃないけど)僕は秀人君にじかに、「どうするつもり?」ってきいたことがあるんだ。あの子はそのとき、〔ぽつりぽつり〕といった調子で、こんなふうに僕に答えたよ。「どうしましょう?親には、僕はいまチャイナタウンの近くにある英語学校に通っているって言ってます。ですから、親はそれで安心して、送金もしてくれてますから、おカネには困らないんですけど…。まずいですよね、こういうの」
          ※
   あのころの僕はまだ、『南加日報』で働きつづけようか、なんて迷い始めてはいなかった、というより、自分はしっかりした目標があってアメリカにいるんだって(無理にでも)思い込んでいたから、(どちらかというと怠け者だった自分の過去のことはすっかり忘れて)〈そりゃあ〔まずい〕なんてものじゃないんじゃないの。そんなことしてると将来がなくなっちゃうよ。いま、そんなふうに自分を甘やかさない方がいいと思うよ〉などと考えたけど、秀人君には何もいわなかった。…だって、大学受験に失敗して間もない秀人君の目には、アメリカの大学でMBAを取得したいという僕が(実はまったくそんなんじゃないのに)ずいぶんな優等生に見えていたかもしれないし、そういう人間が(秀人君自身がちゃんと分かっているはずの)何かを、ほら、したり顔で言ってしまうと、やっぱり、いやらしいじゃない。
          ※
   秀人君は半ばうつろな目つきでつぶやいた。「アメリカを見れば気分がすっきりして、また一年、受験勉強に集中できると思ってたんですけど…。サンタモニカの砂浜がいけなかったですね。夏のような日差しを浴びながら、太平洋に向かって両脚を投げ出すようなかっこうで、一人で寝そべっているうちに、ああいうのを〔魔がさした〕と言うんでしょうか、急に〔電子工学がなんだ〕なんて思えてきちゃって…」
          ※
   僕は(早くも新聞編集員ふうの物の見方に染まり始めていたのか、というとちょっと変だから、そう、慣れかけていたのか)みょうに冷静に〔魔がさした〕はどうも、その状況にはふさわしくないようだ、と思いながらも、一方で〈うーん〉とうなってしまったよ。
   なぜって…。そういう感覚は分かる、と感じたんだよね。南カリフォルニアの日差しには、(〔クォンタム・リープ〕っていうの?)突然人をどこかに飛ばしてしまうような(ちょっと大げさにいえば)魔力があるんじゃないかって、僕自身が感じ始めていたからね。
   たとえば、広大な牧草地の真中の、自動車なんかめったに通らない、曲がりくねった道を、[ムスタング]で(だれもがそうするように五五マイルの制限速度を無視して)六五マイルぐらいで走る。快晴。乾いた風。…頭の中がすっと空っぽになってしまうんだよね。
   危ないよ、ああいう瞬間って。
   いや、たとえサンタモニカの砂浜で〔電子工学がなんだ〕と思ったとしても、結局はみんな、予定どおりに、自分の(日本での)現実に戻っていくわけなんだけど…。
   秀人君は戻らなかった。
          ※
   柴田さんといっしょに一階のロビーに入ってみると、秀人君は、左手の中指を右手で包むように握りながら、ソファーに腰を下ろしていた。…うずくまっていた、とかいうんじゃなくて、ただ〔腰を下ろしていた〕というのは、彼があまり痛そうにはしていなかったからだけど、わきにいた、日本人観光客を相手にガイドをやっている(二十代後半の)武井さんと、秀人君が勉強していることにしているチャイナタウン近くの英語学校に(こちらは実際に)毎日歩いて通っている(三十歳は過ぎていると思われる)遼子さん、それに、このホテルに三人住んでいる白人男性のうちの一人(で遼子さんとおなじ年頃に見える)リチャードさんは、ずいぶん心配している表情だった。
          ※
   また話がそれてしまうけど、その三人の白人男性のことにちょっと触れておこうかな。
   さっき、このホテルには三十五の部屋があって、住人というか、長期逗留者というか、そんな日本人が十五人ほどいるって言ったよね。…で、あとの二十人ほどについても、どういう人たちなのかを説明しておいた方がやっぱりいいようだから。
   と言って内訳は単純なんだ。まず、いま言ったように、白人の男性が三人。あとは中国人の(他人同士の)男性と女性が一人ずつ。ベトナム人の男性が一人。残りは日本からやってきて短期間宿泊しては去っていく男女の(ほとんどは)若い旅行者。…それだけ。
   白人は三人ともアメリカ国籍だと思うけど、中国人二人とベトナム人一人の国籍は知らない。
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   ついでに言っておくと、このホテルのオーナーはジェイスン・イーさんという韓国系アメリカ人で、その人の甥夫婦(テッドさんとキャッシーさん)が、三十五室のほかにもう一つある部屋に寝泊りしながら、マネジャーとして働いている。
   客室やロビー、廊下、階段などの清掃にはメキシカンの男女が(入れ替わり立ちかわり)雇われている。…テッドさんとキャッシーさんが気に入る仕事をするメキシカンがあまりいないのか、それとも、雇われた方が二人を嫌うのか、とにかく、だれも長つづきしない。
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   中国人の男性はチェンという名だ。リトル東京にあるチャイニーズ・レストランでコック見習いみたいなことをしているらしい。何週間か前に(ホテルの一階にある)ローンドリールームでちょっと立ち話をしたとき、チェンさんは片言の英語で、晴れやかに(というか、誇らしげに、というか)「カネもだいぶ貯めたし、もうすぐここを出て、アパート住まいを始めるつもりだよ。こんなところに住んでいたんじゃ、だれも結婚してくれないからね」って言ってたよ。
   そんないい方をしちゃ、〔こんなところ〕に長く住むしかないほかの人たちが気を悪くするんじゃないかと、僕は(なぜか、自分のことは頭に入れずに)思ったけど…。たしかにね、このホテルに住みつづけながら人生の成功者と見られようたって、そりゃあ無理だよね。
   この人、一年半ぐらいここに住んでいるんだって。
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   女性の方は、ダウンタウンのバスターミナルの近くにある小さなビジネスホテルで、客室の清掃係として働いているらしい。ほとんどだれとも口をきかないから、この女性から何かを直接聞き出した日本人はいないようだ。でも、(マネジャーのテッドさんがだれかにそう話したことでもあるのか)職場まで歩いて通うことができるというんでここに住んでいるんだって。それも、十数年間もね。…チェンさん以上にカネを貯めているはずだ、という人もいるけど、いまだにここに住んでいるところをみると、稼いだカネはほとんど全部、台湾か香港、そうでなきゃ中国本土に住んでいる家族に送っているのかもしれない。
   この女性の名はリンさん。だけど、それが〔林〕なのか、たとえばキャロリンまたはキャロラインの愛称のリンなのか、その辺のところは、確かめた人がいないみたいだよ。
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   ベトナム人はみなにジャックさんと呼ばれている。本名じゃないんじゃないかな。五十代の半ばぐらいの年齢だと思うよ。リトル東京から遠くないチャイナタウンにあるベトナム系食品貿易会社で雑役をやっているそうだ。…ジャックさんは、韓国系アメリカ人が経営している(客のほとんどが日本人である)リトル東京近くの小さなホテルに住んで、中国系移民がつくりあげた町で営業しているベトナム系企業で働くという、いかにもロサンジェルスらしい、カラフルな国際的環境の中にいるわけだけど、自ら望んでそんな暮らしをしているわけではないんだよ。ほんとうは、ロサンジェルスダウンタウンから南東方向へ四〇キロメーターほど離れたところにあるリトルサイゴン(のベトナム人ベトナムアメリカ人の中)で暮らしたいんだって。
   じゃあ、そうすればいいのにって?
   それが、簡単じゃないみたいなんだよね。ジャックさんは(ジャックさん自身がいうには)以前はアルコール好きのギャンブル(特に競馬)狂いで、それが原因で、そのリトルサイゴン近辺に住んでいる家族や親類に見捨てられ、放り出された人らしいからね。…周囲の親しい人たちには〈アルコールとも馬とも切れたけど、もうちょっとここでがんばってかっこうをつけなければ、みなのところには戻れないよ〉みたいなことを話しているんだって。
   もう若くはないんだし、家族や親類が住んでいる町に早く戻れるといいんだけどね…。
          ※
   で、三人の白人。
   日系人と日本人の町であるリトル東京(とアフリカン・アメリカンのホームレスの人たちが多く集まっている地区)の近くのこの安ホテルに、アジア人たちの中に混じ込んで長く住んでいるんだから、この三人は、街なか(や取材先)で見かける大方の白人とは、やはり、どこかが違って見える。
   第一に言えることは、三人とも、周囲に与える印象が暗い。…何てったって、このホテルは、移民してきた中国人やベトナム人が、なんとか早く抜け出したい、と夢見ているようなところなんだから、アメリカで生まれ育った白人がすっかり満足して長期逗留しているわけはないんだろうけど、とにかく、暗い。もっとはっきり言ってしまうと、〔わたしは人生の落伍者です〕って看板を背負って歩いているかのように、暗い。
   いや、リチャードさんはいくらかましだけど、あとの二人は、見ていて気の毒に感じてしまうほど暗いんだ。
   しゃべらない。笑わない。…そういえば、その二人がともに、三階や二階と比べると日当たりも風通しも悪い一階にあえて住みつづけているのは、ほかの住人、逗留者たちとなるだけ顔を合わせないためなのかもしれないな。
   それに、これは性格や態度、風貌などとはまったく無関係なことだけど、三人とも、どういうわけだか、自動車を持っていない。持つ気もないみたいだ。…(スシマンの)柴田さんが前に、「警察なんかに追われていれば、免許証は取らない、自動車登録はしない、これ、常識だよ」と言ったときには、〈そういう柴田さんも、免許証はともかく、車は持っていないじゃないですか。でも犯罪者ってわけじゃないでしょう?〉と思ったけども。
          ※
   三人のうちの最初はスティーブさん。年齢がときによって三十代にも五十代にも見える人だ。
   と切り出したけど、実は、そのファーストネームのほかはほとんど何も知らないんだ。あの人は(ハリウッドの方に向かってトンネル掘りが進められている)地下鉄工事の現場で働いているんじゃないか、というのがみなの推測だ。だけど、確かなところはだれも知らないみたいだよ。
   でも、地下鉄の、かどうかはともかく、毎朝早く(五時半前には)作業員ふうの服装でホテルを出て、歩いてダウンタウン方向へ向かうし、午後四時ごろにはおなじ方向からまた歩いて戻ってくるっていうから、ふつうは六時‐三時のシフトで働く(という)建築工事現場で働く労働者だろうって説は当たっているのかもしれない。…もっとも、この説には、大きな工事の現場で働く労働者は組合に加入していて賃金も悪くないはずだから〔こんなところ〕に住む必要はないだろうに、スティーブさんはなぜ、という(やはり柴田さんが持ち出した)疑問に答えられないという弱点があるけどね。
   この人がこのホテルに入ってから、もう二年近くが経っているんだって。
          ※
   二人目は、もう六十歳に近いはずのブレットさん。
   この人のことはいくらか分かっているんだ。六年ぐらいここに住んでいるそうだし、この人と直接立ち話をしたことのある日本人もいるにはいるみたいだから。…ダウンタウンの少し南、サンタモニカ・フリーウェイの高架のそばにある(みながいうには)〔洗濯会社〕でアイロンを当てる(というより、当てる機械を操作する)仕事をしているんだって。レストランから集めてきたテーブルクロスやナプキンを洗濯、プレスする会社だそうだ。
   ロサンジェルス・ストリートを南北に走る路線バスで通勤しているらしいよ。
   そうそう、この人については、(日本にいたときは、新宿西口にある高層ビルの中にある会社で事務の仕事をしていたという)遼子さんが「白人がメキシカンや黒人に混じって最低賃金で単純労働を長くつづけていれば、性格、暗くもなるわよね」って(露骨なことを)言ったことがあるよ。それだけが〔暗い
原因じゃないんだろうけどね。
   〈俳優になろうと思って、三十年ほど前にオクラホマからやってきたんだ〉と話しているそうだよ。でも、いまの姿からは、そんな野心を抱いたことがあるようにはまるで見えないな。
          ※
   この二人には、たとえば、週末にいっしょにどこかに出かけたり食事を楽しんだりするような友人はいないみたい。仕事場ではどう振る舞っているんだろう?
   だれかが訪ねてきたところを見た人もいない。
   それも分かるって気もするけどね。…というのは。
   「新しい暮らしを始めた等さんの部屋がどんなふうか、一度見ておこうかな」という真紀をこのホテルに、四月の初めごろ、連れてきたことがあるんだよね。でも、正直にいうと、僕はあのとき、あまり気乗りがしていなかったんだ。…周囲の雰囲気、建物の様子、外観。アメリカの大都会のダウンタウン周辺はどこも似たようなものだと思うけど、このホテルのまわりにも、殺風景な、人の温かみの少ない、ちょっと荒涼とした感じがあって、やはり、だれかをわざわざ招待する場所のようには思えなかったからね。真紀もあれを最後に、ここで会おうとはいいださないし…。
          ※
   あ、そうか。スティーブさんとブレットさんは、こういう場所だと、たとえば、家族だとか昔の友人、知人だとかに姿を見られたり発見されたりする可能性が小さいはずだ、あるいは、自分がこんなところで暮らしていようなんて考えるものはいないだろう、と読んでここに住んでいるのかもしれないな。
   あの二人は、(柴田さんが示唆した〔犯罪者〕説は、やはり、いきすぎだと思うけど)何か事情があって、人目を引きたくないと思って暮らしているうちに、自然に、あんなふうに暗い印象を与える人間になってしまったのかもしれないな。

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