留学生・横田等のロサンジェルス・ダイアリー =2= 8月16日 水曜日


    くたくたで死にそうだよ。
    何てったって、昨夜はこの日記の第一日目だったからね。つい精を出しすぎ、夜更かしをしてしまったし、いったん寝入ってからも、脳の興奮が冷めず、眠りがすごく浅かった。
    しかも、きょうはきょうで…。
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   他人に読んでもらう文章など(学校で教師に提出しなきゃならなかったものを除けば)四か月前まで、この世のどこででも、まるで書いたことのなかった人間に、エッセイでも評論でも解説でも何でもいい、とにかく、まとまった形のものを数時間のうちに、それも、二つも書きあげろなんて、だいたい、むちゃだよね。しかも、書いたものを、購読者の数は知れているとはいえ、ちゃんと新聞と名のつくものに掲載しようというのだから…。
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   その〔人間〕というのは、もちろん僕のこと…。いくらかは英語を読むことができて、いくらかは英語を日本語に書き換えることができるかもしれないけども、新聞の記者や論説員になるような訓練など一度も受けたことのない僕のこと。日本や世界で起こっていることは少しは理解できるかもしれないけれど、英語を勉強するために一年ほど前に南カリフォルニアにきただけで、まだ地元の政治や経済、社会のできごとなどについては、事実上、何も知らない、ましてや、ロサンジェルス一帯の日系・日本人コミュニティーのことについてはまるきり無知な、僕のこと。
   だから、僕は、そんな僕に一日のうちにコラムを二本書かせようなんて考えは、むちゃだ、読者のためにもいいことじゃないと思うって、そう言ったんだけど…。
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   だけど、編集長の児島さんはそうは思わなかった。僕が〔むちゃだ〕と言い張るのに対して、児島さんはこうこたえたよ。「もっと物分かりがよくなってくれなくちゃ、横田君。ボクが〈いまは何も書く気がしない〉と言ったら、ほんとうに何も書けないんだってこと、もう知っててくれなくっちゃ」
   〈またきたぞ〉。僕は胸の中でつぶやいたよ。〈編集長に対して〔物分かり〕をよくしていられるような状況じゃないんです、いまの僕は。三時過ぎから書き始めたコラム[海流]の、明日の自分の担当分さえ、まだ書き終えることができずにいて、ほんとうに困りきっているんですから〉
   編集長が〔書く気がしない〕といいだしたのはあれが初めてじゃなかったし、実際に、いったんそう口に出してしまえば、もう、何があっても絶対に何も書かない人だってことは、とっくに分かっていたんだよ。だけど、きょうはなぜか、みょうに、おとなしく譲りたくなかったんだ、僕は。
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   編集長はなんで書く気がしなかったのかって?
   だから、そういいだすときはいつも、あの人はすでに(少なからず)アルコールに酔っていて、気持ちがすっかり〈さあて、いつものバーでもう何杯かひっかけようか〉という方に飛んでしまっているんだ。
   児島さんはつづけた。「それに、きょうの新聞、あのコラムなしで出すわけにはいかないし…。そうだろう?だって、戦争が終わった年の翌年、一九四六年に『南加日報』が再刊され、[海流]欄が創設されて以来、あのコラムが抜けたことは一度もないんだよ。ほぼ五十年ものあいだ、だよ。だから、常に、だれかが進み出て『日報』の偉大な伝統を守らなきゃいけないんだ。分かるよね」
   僕は分かりたくなんかなかった。…いや、〔『日報』の偉大な伝統〕はできれば守りつづけたいものだ、とは思っていたんだよ。だけど、〔だれかが〕、つまりは、きょうは僕が、というところが僕にはどうも納得できなかった。
   だから僕は、大学でリポート・ペーパーを書かなきゃならないときに役立つだろうというので日本から持ってきていた、日英両語が書ける(この新聞社で日本語の文章を毎日書くようになってからは、その便利さに心底から感謝するようにさえなっていた)自分のワープロのスクリーンを、(演じられる限り)かたくな(そうに)に見据えつづけていた。
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   児島編集長は、前に酔ってていたときもそうだったけど、みょうにがまん強く、饒舌だった。「それに、辻本さんも光子ももういないし…。どこかへ行っちゃって…。どこか?…ああ、そうだったな。この時間だから、辻本さんはいつものように、日本人町のどこかのレストランで早めの夕飯を食べているに違いないな。で、光子はというと…。そうか、日本舞踊のなんとか流のなんとか一派の年次総会か何かがあるというんで、そいつを取材してくるようにって、ボクがいいつけたんだったな。…だったよね?」
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   そうだな…。話をそらせて、辻本さんと光子さんのことをちょっと説明しておくよ。辻本さんというのは、(いまは、コミュニティーの行事予定を記事にすること、編集員が書いた原稿を校正すること、その二つが日本語編集室での主な仕事になっている)〔編集顧問〕と呼ばれている、『日報』で四十五年間働きつづけてきた、七十六歳の温厚な紳士で、光子さんは、ときどき急に学生みたいな変に軽薄な話し方をするのでほんとうの年齢が判然としない(目じりのしわのより具合などから判断すると、たぶん、三十五歳前後の)ベテラン取材・翻訳記者だ。
          ※
   ついでに、状況が想像しやすいように、日本語セクションの編集室がどんなふうになっているかについても、少し触れておくね。
   日本語編集室には机が六つ備えてある。そのうち、西側の窓のない壁に向けてある二つは、上に本棚が乗せてあって、事典や本が(旧漢字で印刷されたずいぶん古いものも含めて)何百冊か雑然と積まれたり置かれたりしているだけで、いまはだれも使っていない。部員たちは残りの四つを部屋の中ほどに〔田の字〕型に並べ、編集長と辻本さん、光子さんと僕がそれぞれ向かい合う、つまり、編集長と光子さん、辻本さんと僕が隣同士になるような形で使っている。
   ちなみに、もう一方の、おなじく窓のない(編集長と光子さんが背を向けている)東側の壁沿いには、黒く塗装された年代物のスチール製の大きなキャビネットが三つ置いてある。中には、一九四六年の復刊後の数年間に読者から寄せられた投稿や投書などが、貴重と思われるほかの資料といっしょに保管してある、ということだけど、僕は、中の資料をだれかが手に取っているところを見たことがないし、僕自身も扉を開けてみたことはまだない。
   いや、中から少し資料を引っ張り出して、そいつを読んでみようか、と思ったことは(特に、この一か月ほどのあいだに)何度もあるんだよ。でも、そういう資料って、〔禁断の木の実〕というとちょっと違ってしまうかもしれないけど、ついふらふらと触れてしまった人間を、思いもしていなかった方向へぐいぐい引きずり込んでしまう、そんな魔力があるんじゃないかって気がするものだから…。
   もし、この新聞社で働きつづけることに決めたら、すぐにもキャビネットの中を覗いてみるよ。
   東側の壁の向こうは英語セクションの編集室だ。ただし、壁にはドアがないから、行き来する際には、南側の〔工場〕か、北側の受付兼事務室、新聞発送室を経由することになる。
   で、あのとき、編集長は自分の机を離れて、光子さんの机まで、つまりは、僕の表情を真正面からうかがうことができるところまで、出張ってきていたんだよね。
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   話をもとに戻すと…。
   僕はワープロのスクリーンから視線を離して、編集長の顔を(ほとんど)にらみつけるように見返してしまったよ。〈〔だったよね?〕はないんじゃないですか〉と思いながら。
   編集長は顔を大きく崩してにたりと笑った。たちまち嘘と分かるようないいかげんなことを僕に言ってしまったことを、少しは恥ずかしいと思ってのことだったと思うよ。だって、その〔年次総会か何か〕というのは、ここ数年間編集長が(社内のほかの人たちがいうには)〔ずいぶん親しくしている〕師匠が開いたもので、あの人がそれを忘れるはずはなかったのだから。
   なんて遠回しにいうことはないんだよね。これは僕の私的な日記なんだから、はっきりと、〔編集長の愛人である三十八歳の日本舞踊の師匠、スージー・ナカザキさんの一派が開いたものだった〕と言っても、どこからも苦情は出ないんだよね。
   愛人?…そうなんだ。社内のほかの人たちは、この五十五歳の編集長は、まだ日本にいた十五年ほど前に日本人のおくさんと離婚していて、いまはともかく独身なんだから、〔不釣合いに若い〕ガールフレンドを何人持とうとあの人の勝手だ、と思っているみたいだけど、ほんとうはそうじゃないんだ。法的にはあの人はまだ、その奥さんと離婚してはいないんだ。というより、いま神奈川県に住んでいるその奥さんが離婚届にどうしても判を押してくれないんだ。だから、スージー師匠は、編集長にとっては、言葉のニュアンスを大事にして言えば、〔愛人〕ということになるはずなんだ。
   そんなことをなんで(〔社内のほかの人たち〕じゃなくて)僕が知っているのかって?
   師匠が直接僕に話してくれたからなんだけど、そのことはまた別の機会にしゃべることにするよ。それはそれで、けっこう長い話になりそうだから。
   そういえば…。あんなふうにしらばくれたところを見ると、僕がそこまで知っていることを、編集長は知らないんだね。スージーさんは、そんな話を僕にしたってことを、編集長にはまだ告げていなかったんだね、きっと。
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   もう一度、話をもとに戻し直すと…。〔書く気がしない〕と言いだしたときの編集長は(アルコールにあおられもして)、数時間後にはスージーさんに会う、会えば、〔年次総会か何か〕に記者を派遣してくれた(つまりは、明日には自分のことが記事なり、写真つきで新聞に掲載される)ことに感謝するスージーさんが自分を夜通し熱くもてなしてくれるはずだ、などと胸を高鳴らせていたんだと思うよ。
   え、下司の勘ぐり?
   でも、スージー師匠は、(ほかの流派の師匠たちの数倍の頻度で)『日報』に記事が出るたびに、(いつも光子さんと決まっている)担当記者に(ふつうは二〇ドル札一枚みたいだけど、ほら、僕と大きくは異ならない、あの程度の給料しかもらっていないはずの光子さんにとってはけっして小さな額ではない)〔お祝儀〕を渡すだけではなく、二、三日後には、[三河屋]で買った和菓子の大きな折りを自分で新聞社に持ってきては、「どうぞみなさんでお食べになって」などといいながら、〔工場〕の人たちにまで最大級の愛想を振りまき回るほどの、というのが十分じゃなかったら、端的に、そもそも(僕の目には、男としての魅力なんかあまりなさそうに見える、身長が一七〇センチメーターほどで、半分白髪頭、着るものや履くものに無頓着で趣味もよくない、タバコとコーヒーで歯がきいろくなっている)児島編集長とそんな仲になるぐらいの、大変なメディア好きなんだ。だから、自分のことが記事になる前の晩となると…。
   やっぱり、下司かな?あのときの編集長の表情はどうしてもそんなふうに見えたんだけどね。
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   スージー師匠が新聞社にやってくるのは、だけど、みんなに礼をいうためだけじゃないんだよ。社内をひとめぐりしたあと師匠は、自分のことが書かれた記事が載っている新聞を五〇部ばかりちゃんと持って帰るんだ。そのほとんどは弟子たちに渡してそれぞれ保存させるらしいけど、五部だけは決まって、日本にある一派の家元に郵送するんだって。…なかなか現実的だろう?しっかりしてるだろう?
   スージーさんが社内を駆けめぐっているあいだ編集長はどうしているかといえば、たいがいは、[AP](アソシエイティッド・プレス)が刻々送ってくるニュースなんかを、「日本関係のニュースがきょうはまったく入ってこないじゃないか」などとつぶやきながら、やたら難しげな表情で読んだりしているわけだ。
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   そんな調子だから、ほかの流派の師匠たちはスージーさんに対して、けっこう大きな反感、というのでなければ、嫉妬心を抱いているみたいだよ。光子さんがほかへ取材に出かけていたために僕が行かせられたある流派の名取祝いの会では、「招待状は出してはみたけど…。おたく、うちにきてくれることもあるのね」なんて、新米記者の僕が、だよ、面と向かって嫌味をいわれたことがあるぐらいにね。
   僕は「〔コミュニティーに奉仕する〕が『日報』のモットーだって児島編集長がいつも言っています」といささか的外れな返事をするのが精一杯だったよ。…型どおりの取材をすませ、(それでも、コミュニティーの習慣どおりに、いちおうは用意されていた)〔南加日報記者様〕という名札つきの席につき、たいがいは和装だった老若の婦人たちに混じって、出された中華料理をもくもくと食べ始めてからも、僕は、『日報』の(どう考えても)公平だとはいいがたい取材姿勢をひたすら反省するばかりで…。
   つけ加えておくと、隣に用意してあった〔日米新報記者様〕の席にはあの日、最後までだれも座らなかったよ。
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   でも、そんな嫉妬があることからも察しがつかない?
   『南加日報』は、三十年ほど早く創業した(いわゆる)老舗でなかなか商売じょうずの、発行部数が二万五〇〇〇といわれている『日米新報』と比べると、ずいぶん見劣りがする、読者数が一万ぐらいの小さな新聞なんだけど、(少なくとも)日系・日本人コミュニティー内の一部の人たちには、けっこう大事なメディアだと思われているんだよね。もっとも、それも、英語セクションのレイアウト係の前川さんによると、「『日米新報』は〔公正を期するため〕とかなんとか言って、私的な団体の私的な行事などにはほとんど紙面を提供しないし、ローカルの日本語テレビ局二社にはそんな(名取祝いの会みたいな)小さな出来事に割く時間帯などないから、自然に、一部の人たちが『日報』を当てにするようになるだけだよ」ということになるんだけどね。
   そうそう、その『日米新報』が長く〔中立〕(前川さんがいうには〔無難第一〕)を新聞の性格にしてきたのに対して、『南加日報』は創業以来、コミュニティー内で(〔奉仕の〕ではなく)〔論説の〕『日報』と呼ばれてきたんだそうだ。…編集長が一度、「カンバンは時によりさまざまに移り変わってきたけれども、[海流]などのコラムを主な舞台にしてだな、初代社長の今村徳松や代々の論説員たちが紙上で張ってきた、優れた論陣が評価された結果の、これは、実に名誉のある呼び名なんだ」という具合に僕に説明してくれたことがあるよ。
   そんな〔名誉のある呼び名〕ときょうの〔書く気がしない〕騒ぎはまるで対応していない、と僕は思うんだけどね。
          ※
   ということで…。
   編集長が仕事中のあんなに早い時間にグラス酒をしないでいられなかったのは、つまり、そういうわけだったんだ。あの人の頭の中はすでに、スージーさんのことで、というより、数時間後にスージーさんと過ごす一夜のことで、いっぱいになっていたに違いないんだ。そんな一夜が楽しめる自分の幸運をアルコールで祝わずにはいられなかったんだ。
   なんでそんなふうに決めつけるのかって?
   余計な世話というものなんだろうけど…。あの師匠は実は、(もう一度いうと、冴えない日本語新聞社の、五十五歳にもなる)編集長なんかを相手にしているのがはたの者には理解できないぐらい(というか、さっきも名前を出した前川さんが、ほかの六つには触れないままだったけど、二人の関係を〔日系・日本人社会の七不思議の一つ〕と言ったことがあるぐらい)の、なかなかの美人なんだ。
   いや、もしかしたら、飛び切りの美人というのじゃないかもしれないけれど、色が白くて、離婚した夫とのあいだに十三歳と十一歳の娘がいるというのに、肌に良いつやがあって、みょうに体の形がよくて、〈離婚しているからには、この人、いまは独り身なんだ〉というような見方で見ると、何かを訴えるようなかげが目つきに見えたりして、そう、ひと言で言ってしまえば、すごくセクシーな女性で、(もちろん、真紀がいるから、僕自身はそうは思わないけど)男だったらだれだって夜をいっしょに過ごしたくなりそうな、そんな雰囲気をいつもたたえているんだ。
   それに、父親が第二次世界大戦後に(台風の被害を受けた鹿児島県から特例〔難民ビザ〕で)移民してきた人で、母親の方も、父親の親戚がおなじ鹿児島からアメリカへ、なんというか、送り届けた人だそうだから、師匠も見かけはすっかり日本人なんだけど、しゃべる日本語はいわゆる片言で、そのバランスの取れていないところにへんな愛嬌があって…。
   で、そんな女性だから、もうすぐそんなふうに会えるとなると、だれだって早手回しに興奮するんじゃないかと、まあ、僕はそう考えたわけだ。…しかも、児島編集長は、かなり、というよりは、むしろ、新聞人としては豊かすぎる類の、つまりは、使いみちを誤るとちょっと危ないことになりそうだなって僕が感じるぐらい、強烈な想像力、空想力を持った人だから。
   いや、スージー師匠については、僕もかなりの〔想像力〕を働かせてしまったようだけど…。
          ※
   「流派のことは、まあ、わきに置いておいて」と編集長はつづけた。「とにかくそういうわけだから…。辻本さんも光子もいないわけだから、いまコラムを救うために起ちあがらなければならないのは、ほかのだれでもない、君だよ、横田君。いいね?」
   〔いい〕わけはなかった。〔なければならない〕とはなんて言いぐさなんだろうと思った。しかも、編集長はまだ、あす君が担当することになっているコラムは代わりに自分が書くから、とは言っていなかった。そいうことをいう人じゃないってことも、僕は分かっていた。だから、僕はこういい返したよ。「そんなふうには、僕、起ちあがれませんよ、編集長。いますぐ何か一つ書きあげるなんて、無理ですよ。僕の能力以上のことは求めないでください。僕自身のあすの分に何をどう書いたらいいかさえまだ分からないでいて、いま、ほんとうに弱りきっているところなんですから…。あすの自分のことだって怪しいのに、編集長の代わりにいますぐ何か書きあげる余裕なんか、僕にあるはずないじゃないですか」
   編集長の顔にまた、あの〔にたり〕が浮かんだ。
   僕は(表情には出さなかったと思うけど)ちょっとひるんでしまったよ。…実をいうと、僕はこの〔にたり〕が苦手なんだよね。なぜといって、この笑いには、周囲の者たちを催眠術にかけてしまうような、不思議な魅力があるからね。日本語編集室でふだん見せる、どちらかというと、そう、ちょっと権威主義的な、高飛車なもののいい方はもっぱら仕事用で、もともとの自分はお人好しのおじさんなんだよ、とでも言っているような感じで…。ずるい、という気がしないでもないけど、その〔お人好し〕な感じが全部つくりものだとも思えないんだよね。
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   で、その〔お人よしのおじさん〕顔で編集長は言った。「そこだよ。君のいいところは。ボクは好きだな、君のそんなところが」
   僕は、どんなところであれ、そんな状況のときに、そんなふうな編集長には、あまり好かれたくはなかった。
   あの人はこうつづけた。「君はこれまであのコラムを一度もミスったことがない。偉いよ。君はほんとうに責任感の強い青年だ。その責任感は君の宝だな。おおいに誇っていい宝だ。いや実際に、数か月前に君が面接を受けにきたときすでに、ボクは一目でそのことを察知したものだったよ。なにしろ、君は、ボクがそれまで見てきた多くの若者たちとはかなり違っていたからね。…その、なんというか」
   「そう言っていただいて悪い気はしませんが…」。その面接の際に編集長に〈このカリフォルニアにやってきて、ちゃんとした目的もなしにただぶらぶらしているだけの多くの若い連中とは、君はいくらか違うみたいだな〉といわれたことを、ずいぶん遠い過去のことのように思い返しながら、僕はつづけた。「でも、責任感だけでは、一度に二本のコラムは書けませんよ、編集長。いえ、二日間に二本だって無理ですよ。準備に時間がかかるし…。一本書きあげるのに何時間もかかるんですから。僕は、とにかく、書くのが遅いんですから。そのことは、編集長、とっくにご存じじゃないですか。遅いのが自分で分かっているからこそ、いまからあすのコラムに備えようとしているんです。もう一本なんて、書けるわけがありませんよ。アイディアもストーリーも、何も持ち合わせがないんですから。それに…」。つづければきょうの編集長への嫌味か皮肉になってしまうな、と感じながらも、僕は言った。「それに、あしたの分をきょう書きあげておけば、あしたは新聞が早くできあがって、〔工場〕で働く(タイピストの)田淵さんや(日本語セクションのレイアウト係)江波さんたちが助かるわけでしょう?」
          ※
   僕があすのコラムの準備をしていたのには、正直にいうと、編集長に言ったことにほかに、もう一つ理由があったんだよね。
   それは、僕がロサンジェルスに移ってからはずっと、真紀と僕は、木曜日を電話で長話をする日にしていたこと。…ほら、真紀の好きな(NBCが夜八時から三十分間放送している)[フレンズ]をそれぞれ自分の部屋のテレビで見ながら、笑い合ったり、ちゃんと聞き取れなかった会話の中身を〈ね、いま何を言ったの?〉〈何がおかしかったの?〉などとたずね合ったり、もっと大事なこととしては、そう、次の週末にはどこで何をして過ごそうかと話し合ったりして過ごす日に…。
   だから、僕は、あすはできるだけ早くホテルに帰って、([ヤオハン・プラザ]のスーパーマーケットで買った弁当か何かで)早めに夕食をすませ、早めにシャワーを浴び、そのあと(僕が真紀に電話をかけることになっている八時少し前まで)、三日目になるこの声の日記をできるだけつけておきたかったわけ。
          ※
   ついでにしゃべっておくと、僕は毎日、午前七時までには出社することにしているんだよ。
   出社し、日本語編集室の自分の机の上にワープロを下ろすと、すぐに、英語編集室の前に設置してある[AP]のプリントアウト・マシーンを覗く。[AP]の記事と写真は二十四時間電送されつづけているから、前夜から早朝にかけて入ってきたものの中に、何はともあれ、まず、日米・日本・日本人・日系人・ローカル自治体関係のものがありはしないかと探すためだ。
   写真はふつう、全部で数十枚になっている。でも、チェックし終えるのにそれほど時間はかからない。…特に、日米・日本関係の写真となると、(阪神・淡路大震災の際にはすごい数で入ってきたそうだけど、[ドジャーズ]の野茂が格別にいい投球をした日や日本の国会や永田町で何か特別のことがあった日、有力政治家が訪米しているあいだなどを除けば)ふだんは、そう数多くは入ってこない。
   これに対して、紙の長い帯となって入ってきた記事のチェックは簡単じゃない。第一にはニュースの発信地に、第二には記事の中の人名と地名に気を配りながら、大急ぎで、いわゆる斜め読みをして、『日報』で使えそうな記事を探し、見つかれば、その部分を切り取るんだけど、なにしろ、ひと晩に(たぶん)数百という数のニュースが全米、全世界から送られてくるわけだから、けっこう時間がかかってしまう。見落としにあとで気づくことも多い。…児島編集長や、自ら英語セクションの編集長でもあるフレッド・イマムラ社長、英語編集員のデイブ・イワタニさん、英語欄レイアウト係の前川さんがあとで見なおしてくれるから、実害はほとんどないんだけど、見落としが分かると、やっぱり、ちょっとしょげてしまうよ。
   使える写真と切り取った記事は、習慣を尊重して、児島編集長の机の上に置くことにしている。
   でも、それ、たいていは、編集長より早く出社してくるイマムラ社長が、英語欄で使えるものがあるだろうから先に目を通しておこう、というんで、いったん英語編集室の方に持ち去っていくことになるんだけどね。
   英語セクションがほしいのは、何より先に、日系人関係のニュース。…公的人事、事件、事故。内容は問わない。日系人の名前が出てくるニュースなら、どんなものでもかまわない。…英語欄の読者たちはたいがいは[ロサンジェルス・タイムズ]なんかも読んでいるはずだから、そういった新聞が無視したか、ごく小さくしか扱わなかった記事が見つかれば、それがちょっとした〔特ダネ〕ということになる。英語欄の読者に日系新聞の存在価値を知ってもらえるいいチャンスでもあるわけだ。
          ※
   そんなことをしているうちに、[共同通信社]から日本語のニュースがファックスで入り始める。
   僕はその中から『日報』の日本語欄でその日使えそうな記事を選び出し、その部分をはさみで切り取り、これも児島編集長の机の上に置く。…あとで出社してきた編集長がまず目を通し、掲載する記事を最終的に選び出して、それぞれの記事に見合った見出しをつけ、記事の方は田淵さんたちタイピストに、見出しの方は写植係の相野さんに渡す。
   この切り取りが終わるころまでには、出勤途中にある[セブン・イレブン]で買ってきた[ロサンジェルス・タイムズ][ロサンジェルス・デイリーニュース][USAトゥデイ][ウォールストリート・ジャーナル]を社長が僕の机まで持ってきてくれるから、僕は、やはり発信地や人名などに気を配りながら、見出しと(それがついていれば)リードを拾い読みする。[AP]のときとおなじように、『日報』の日本語欄で使えそうな記事を探すわけだけど、ここでは(特に、[ロサンジェルス・タイムズ]と[ロサンジェルス・デイリーニュース]の中のカリフォルニア州ロサンジェルス郡、ロサンジェルス市、さらにはその周辺諸都市に関係した(この二社が独自に取材した)ニュースが重要な対象だ。南カリフォルニアに住む日系・日本人にも関わりのある、たとえば、法律・交通規則・税制などの改正、社会的事件、事故、災害などについてのニュースをあとで、〔[ロサンジェルス・タイムズ]が報じたところによると〕というような形で『日報』の記事にさせてもらおうというわけだ。
   これも簡単ではないよ。見出しには、(英語の新聞を読みなれている人たちにとっては〔改まって何を言っているんだ?〕という類の常識なんだろうけど、〔過去形のかわりに現在形を使う〕〔過去形に見えるものは受け身の過去分詞〕〔be動詞はめったに使わない〕〔冠詞はほとんど省略する〕などの)独特の書き方があるし、短い言葉に出来事の核心が集約されているわけだから、僕程度の英語力や社会知識じゃ本文の内容が推定できないことがしょっちゅうなんだ。
         ※
   僕が新聞を読んでいるころに、辻本さんがやってきて、日系コミュニティーの団体や教会・寺院などから郵送されてきた行事予定などを記事の形に手直しし始める。…これは、昔からの定期購読者を確保しつづけるための重要な仕事なんだよ。
   日本からきている(いわゆる)駐在員の奥さんで、ちょっとは頭と体を動かしていたいからと、なんと無給で働いている(らしい)和文タイピストの伊那さんが、コーヒーがはいったと辻本さんと僕に知らせてくれるのもそのころだ。…だけど、ほんとうに無給だとしたら、他人の好意というか善意というか、そういったものにそんなふうに平気で甘えていられるイマムラ社長は(ある意味では)すごい人だよね。
   編集長が顔を出すのは、だいたい九時ごろになる。…二日酔いがひどすぎて、正午すぎになるようなこともけっしてまれではないけどね。
   編集長がそんなふうにひどく遅れる朝は、(以前はその役をしていた辻本さんに強くすすめられて、このごろでは)僕が、[共同通信]が送ってきた記事の中からその日の『日報』に掲載したいものを選び出し、それを〔工場〕に渡している。…タイピストの田淵さんや伊那さんたちをただ待たせておくわけにはいかないからね。
   あとで出てきた編集長が、僕が選んだ記事を〔『日報』向きではない〕と言ってボツにしたことはまだ一度もない。
   もう一人の編集員、光子さんは(編集長が二日酔いじゃない日には)たいがい編集長よりも遅くやってくる。コミュニティーの行事取材が前夜にあった朝などは、いよいよ遅くなる。編集長は、ふだん光子さんを自分の都合に合わせて便利に使っているからだろう、光子さんの遅い出勤を(僕が知っている限りでは)叱ったことがない。…いや、前夜の仕事について残業手当が支給されるわけではないことや、会社が光子さんに払っている基本給が(たぶん)あきれるほど少ないことを思えば、編集長でもあまり強い態度には出られない、という面もあるのかもしれないな。
          ※
   〔工場〕について少し説明しておくね。
   『南加日報』社には実は、(『日米新報』社と違って)もう印刷工場はないんだ。文選(活字拾い)作業も輪転機のうなる音もないんだ。いまとは別の場所に社屋があった一九八四年までは、社内に印刷機を備えて自社印刷をしていたんだけど、老朽化した輪転機がしばしば故障するようになったし、高齢になって引退した文選植字工のあとを若い人で埋めることも(発行部数、つまりは、広告収入が伸びないから十分な賃金が出せないという事情もあって)難しくなる一方だったので、この際、発行工程を一気に〔軽量化〕してしまおうというので、版下づくりは和文タイプライターと写植機を使って社内でやるものの、印刷は外注することにし、ことのついでに、オフィスも(リトル東京をちょっと東に外れた)いまの場所に移したんだそうだ。
   もっとも、(六十二歳のタイピスト)田淵さんから一度聞いた話によると、この説明はいわば〔表向き〕で、ほんとうは、運転資金を調達するために会社の土地と建物を売却する必要に迫られたという事情がさきにあって、それでは、社屋をよそに借りることになるのを機に、輪転機も放棄し、費用と人手のかかる活版印刷はいっさいやめてしまおうということになったんだって。
   もうワープロの時代に入っていたし、和文タイプができるという人はなかなか見つからなかったけれども、それでも、活版印刷とは違ってインクに汚れるわけではなし、教えてもらえるのならタイピストとして働いてもいい、とい人はなんとか数人集めることができたんだそうだ。…文選植字工から転身してタイピストになったのは田淵さんだけだったらしいよ。
   田淵さんたちが働く部屋をいまでも〔工場〕と呼んでいるのは、だから、和文タイピストの人たちを植字工に見たててのことなんだよね。
          ※
   英語セクションのことにも触れておくと、こちらでは、フレッド・イマムラ社長と(先代今村徳一社長のころから編集の仕事をつづけている、無口な二世の老人)デイブ・イワタニさんの二人が、(オフィス移転の際に中古で導入した、いまではすっかり旧式となっている)コンピューター二台を使って、記事を打ち出し、見出しをつくっているから、〔工場〕に当たるものは別にないんだ。
   そういえば…。三月に面接を受けにきたとき、僕は英語編集室には案内されなかったんだよね。だから、この新聞社にはコンピューターなんか一台も備わっていないんだって、思い込んでしまって…。
          ※
   田淵さんや伊那さんたちが和文タイプライターで打ち上げた記事と相野さんが写植した見出しを台紙にレイアウトし貼りつけるのは(三十八歳の)江波さんだ。
   日本語ページの割りつけに間違いがないかどうかは、(夕方に取材がない限りは)朝遅く出社してくるかわりに夜はけっこう遅くまで働いているらしい光子さんが見る。(やっぱり超過勤務手当なしで)残業して、翌日(や土曜日)用に記事を書きためている僕や、いつもどおりに早い夕食を終えて戻ってきた辻本さんが手伝うことも少なくはない。…この段階になってタイプや写植の間違いに気づくことがあるから、それに備えて、田淵さんと相野さんもまだ残っている。用意した記事や写真だけでは紙面が埋まらなくて、だれかが急きょ短い記事を書き足すこともある。
   日本語セクションでも英語セクションでも、版下は(早ければ五時半)たいがいは六時半ごろまでにはできあがっている。
   (僕の仕事はここまでだから、あとのことは自分の目では見たことがないけど)そろった六ページの版下は辻本さんが毎日、リトル東京から遠くないチャイナタウンの少し北にある中国語新聞社に運び、そこの工場で写真製版してもらい、(その新聞社自体の新聞印刷が始まる前に)印刷を終えてもらう。刷りあがった新聞を受け取りにいくのは、発送係として雇われているメキシコ系の青年たちだ。新聞は夜十時ごろには会社に届いている。…版下製作までの過程がとっくにコンピューター化され、印刷も自社内でやっている『日米新報』が毎日、午後三時ごろにはできあがっているのに比べると、ずいぶんのんびりしたやり方だけど、イマムラ社長はずっとこのままでいくつもりのようだ。
   『新報』とおなじように、『日報』も発行部数のうちの大半を郵送で読者に届けている。で、その十時ごろから、(新聞のふちに宛先をプリントし、新聞を宛先の郵便番号ごとにそれぞれ違った布袋に詰め分けるという)発送作業が始まる。メキシコ系の青年たち数人を使いながらこの仕事をやるのはジミー・スギさんという(そんな夜の仕事をしてもらうのが気の毒に思えるぐらい)かなり年輩の日系二世だ。昔、イマムラ社長の祖父である『南加日報』の創業者、今村徳松に〔助けてもらったことがあるので、恩返しのつもりで〕(不動産取扱業から引退したあと)この仕事を引き受けたということだ。…もしかしたら、タイピストの伊那さんとおなじように、スギさんもただ働きしているのかもしれない。
   袋詰めにされた新聞は郵便局に運ばれ、ロサンジェルスとその周辺だと翌日には読者のところに配達される。…僕が二月にたまたま『日報』を見つけた[旭屋書店]などには翌朝、(僕がまだ声を交わしたことのない)佐藤という(やはり高齢の)人が届けている。この人は、太平洋戦争開始前にこちらに渡ってきた一世だそうだ。
          ※
   時間を朝のことに戻すと…。
   出社してきた児島編集長は(僕が切り取っておいた)[AP]のニュースと(イマムラ社長が買ってきてくれていた)新聞数紙の記事の中から、その日はどれを翻訳するかを(ここは、いかにも経験豊かな編集人らしく、実にすばやく手際よく)決める。(日系・日本人向けの)いいニュースがほとんど見つからないという日も少なくないけど、僕にはだいたい二つのニュースが回ってくる。(二日酔いなどが原因で)編集長が遅れる日は、僕が自分で選んだものを(辻本さんの意見を聞いたうえで)とりあえず翻訳し始める。光子さんが受け持つ数は、その日にコミュニティー取材があるかどうか、前夜あったかどうかで決まる。
   それからの僕は(ふつうは午後三時ごろまで)〔頭の中が戦争〕といった状態で時間を過ごすことになる。
   なにしろ、こちらでは特大ニュースだった、たとえば、三年前の〔ロサンジェルス暴動〕のきっかけになった、LAPD(ロサンジェルス市警察)の警官たちによるロドニー・キング氏殴打事件のことでさえ、僕の知識はないに等しいようなものなんだから、ことが小さいものになると、僕は、背景事情を何も知らないまま翻訳にとりかかることになるわけだ。それでは、表面の英語はある程度読むことができても、具体的に何がいわれているのかが分からない。分からないから、結局は日本語にできない。…ことに、働き始めてから間もないころは、数分おきに何かを質問するといった状態で、編集長と辻本さんにはずいぶん迷惑をかけてしまった。
   そういえば、(もうだいぶ慣れたけど)記事の書き方が日本とアメリカとではおなじじゃないことにも、初めのうちはひどく悩ませられたな。だって、こちらの記事は必ずしも(というよりは、ほとんどが)例の〔いつ・どこで・だれが・何を・どうした〕方式で始まらないんだから。…日本式に書きなおすためには、まず、オリジナルの記事の中からその五つに要素を探し出さなきゃならないんだけど、それだけのためにだって、ずいぶん時間がかかったんだよ、初めのころは。
          ※
   ところで、『日報』が([海流]のほかに)すごく力を入れているのは、第三面の〔コミュニティーもの〕と〔翻訳もの〕だ。ここだけは、どんなことがあっても(つまり、発行部数やページ数、広告の量、刷りあがりの時間の早さなんかでは勝てないにしても)『日米新報』には負けたくない、という雰囲気が〔工場〕にいたるまで漂っているほどなんだ。
   というのも、世界とアメリカ関係の記事を第一面に、日本関係の記事を第二面に、というページ構成は原則として『新報』とおなじだし、この二ページは(『新報』の方は時事通信社の記事も使うところが違っているけど)だいたいは[共同通信社]が送ってくるニュースで埋めることができるから、見出しのつけ方や扱いの大きさ、レイアウトなどを工夫する余地はあるものの、『日報』としては特には腕のふるいようがないわけだ。[AP]が朝から午後にかけて送ってきたニュースを緊急に翻訳して入れ込むこともなくはないけど、そういうのは、あまり頻繁に起こるわけではないんだよね。
   そういうのに対して、第三面は([共同]や[時事]がカバーしない)ローカルニュースのためのスペースだから、『日報』と『新報』がそれぞれに〔持てる力〕を発揮して見せなければならないところだ。編集長の真価が問われる(と編集長自身も思い込んでいるらしい)ところなんだ。だから、第三面の〔トップ記事〕を書くのは(よほどのことがない限り)児島編集長になる。
          ※
   〔翻訳もの〕というのは、[AP]などから得た英語のニュースを日本語に翻訳して掲載する記事のことだ。(日本の通信社が目を向けないような)アメリカ、カリフォルニア州ロサンジェルス郡、ロサンジェルス市、さらにはその周辺都市に関係のある政治・経済・社会的事件などのニュースの中から、南カリフォルニアに住む日系人と日本人が知って(あるいは興味と関心を持って)いた方がいいと思われるものを選び出し、日本語にするわけだけど、多くのニュースの中から特に日系・日本人に向いていそうなものを〔トップ記事〕用に一つ選び出し、(背後の状況に関する情報があまり入っていないかもしれない)読者に分かりやすい記事にするのは、(少なくとも、僕の目には)簡単じゃないようだよ。第一には、日系・日本人の意識の持ちようや暮らしぶりをよく知っていなければならないし、第二には、翻訳者自身が(大は世界のことから小は地元の日系・日本人コミュニティーのことにいたるまでの)社会の動きに精通してなきゃならないからね。
   一見したところよりも勉強家なのか、『日報』で長く記事を書いているから自然にそうなったのかは僕には判断がつかないけど、編集長はなかなかいい仕事をしていると思うよ。『新報』と読み比べてみて、(ニュースの選び方や焦点の当て方などで)〈第三面の〔トップ記事〕はきょうもうちの勝ちだな〉と思う日がずいぶんあるからね。
          ※
   一方、〔コミュニティーもの〕というのは、南カリフォルニアの日系・日本人コミュニティー内での出来事、行事、事件などに関する記事のことだ。この方面はふつう、光子さんが受け持つことになっているわけだけど、〔トップ〕にする値打ちがある(と編集長が判断した)ものは、編集長が自ら取材をして記事を書くんだ。
   あの人が真価を発揮するのは、実をいうと、こちらの方なんだよね。
   そうだな…。僕が知っている範囲では、四月の[ロサンジェルス都市圏日系商業会議所]の〔内紛〕事件の記事が代表例だな。熱の入れ方といい、記事のでき具合といい、あのときの編集長の働きはとにかくめざましいもので、第三面の〔トップ〕は数日間、『新報』を圧倒しつづけたよ。…記事の内容を支持する電話が読者からたくさんかかってきたぐらい、コミュニティー内で注目された記事だったんだよ。
   もっとも、編集長個人の主観や主義、好みを核にしてまとめられた、かなり不公平な記事でもあったから、[会議所]の一方の側には(あとで編集長の机の下に酒瓶が何本も並ぶほど)大歓迎されたものの、コミュニティー全体からはあまり高い評価は受けなかったかもしれないけど…。
   この件についても、またいつか触れることにするよ。僕が『日報』で働きだして間もなかったころの、けっこう刺激的な(南カリフォルニア日系人と日本人、それに小実業家や商売人といった人たちについてずいぶん勉強させてもらった)事件だったからね。
          ※
   僕自身のことに戻ると…。
   突発的に大きなニュースが入ってきたりしなければ、午後三時過ぎからは翌日や土曜日のための仕事になる。ふつうは、日時が緊要ではないニュースの中に『日報』で使えるものはないかと、朝からそのときまでに[AP]が送ってきたニュースに目を通し、[ロサンジェルス・タイムズ]などを読みなおしてみて、いい記事を見つけ出したら、その翻訳にとりかかるんだけど、きょうみたいに、僕が週に一度、木曜日に担当することになっている[海流]のための原稿書きに入ることもあるわけだ。
          ※
   『日報』は(『日米新報』とおなじく)週六日(日曜日休刊)の日刊紙で、[海流]も(編集長が〈あのコラムが抜けたことは、一九四六年の欄創設以来、一度もない〉と言っているように)毎日欠かさず掲載されることになっている。筆者は現在(いちおう)六人いて、それぞれが週に一度書く仕組みだ。社内の書き手は編集長と光子さん、それに、僕だ。ほかに、〔論説顧問〕が社外に三人いて、それぞれが原稿を毎週一度郵送してくれることになっている。
          ※
   〔顧問〕のうちの一人は、名古屋に住んでいる中学校の先生だ。名古屋はロサンジェルス姉妹都市だから、生徒たちに両市の関わりを学ばせようとあれこれ調べているうちに『南加日報』の存在を知り、自分にも何か書かせてもらえないか、と言ってきたことがきっかけだそうだ。 …いまでは、日本の教育事情を(じょうずな文章で、というわけにはいかないみたいだけど)現場からいきいきと報告してくれる、[海流]の重要な書き手の一人だ。数年前に十回ほどつづいた〔帰国子女〕に関するストーリーは、編集長がいうには、(駐在員のような形で南カリフォルニアにきているものの)いつかは日本に戻るつもりだという人たちを多く読者にしている『日米新報』と違い、おなじ日本人でもアメリカに永住することをすでに決めている(つまりは、〔子女〕の〔帰国〕後のことについては心配する必要がとうになくなっている)人たちが多く読んでいる『日報』にはもったいないぐらいの、(だから、『新報』に掲載されていたのだったら、もっと関心を集め、もっと高い評価を受けていたはずだ、と思わないわけにはいかないぐらいの)〔すばらしい〕内容だったんだって。
   〔だって〕と言ったのは、僕自身はまだ、保管してあるその当時の新聞を引っ張り出して読みなおしてはいない、ということなんだけど…。
   というのは、その話を編集長から聞いたころの僕はもう、編集長の〔すばらしい〕と僕の〔すばらしい〕はいつもどこかでちょっとずれている、ということに気がついていたし、編集長の日ごろの言動から、名古屋の先生のそのストーリーは、編集長の好きな〔日本=悪玉〕セオリーに沿う形で、ということは、日本の教育者の無関心や無能、教育行政の怠慢を厳しく批判する視点で書かれていたはずだ、と容易に想像できたものだから…。別に、先生のその仕事の出来の良さを疑ったから読まなかった、というんじゃないんだよ。
   この先生の執筆に対する謝礼は、先生が書き送ってくれた評論やエッセイが掲載された『日報』が十部。それだけなんだって。
          ※
   もう一人の〔顧問〕は([ディズニーランド]がある)オレンジ郡アナハイム市に住む、日本から派遣されてきた現役の商社駐在員だ。この人は、記事がロサンジェルス郡中心になりがちな『日報』に、地元の新聞などから拾ったオレンジ郡情報をあれこれ届けてくれるんだよ。
   〈ものを書くのが好きで、もともとは新聞記者になりたかったんですけど、当時のわたしにはどうも一般常識が欠けていたようで、新聞社の入社試験はしくじってしまいましたよ〉と編集長に話したことがある、というだけのことはあって、というとちょっと変だけど、この人は、文章を実になめらかで、几帳面で、知的に書くんだよ。『海流』に品をそえることができるのは、この人だけだと思うよ。
   〈カリフォルニアにきて新聞にエッセイが書けるようになるなんて、思ってもいませんでしたよ〉と、自分の幸運を喜んでいるそうだから、やっぱり(名古屋の先生とおなじように)原稿料はもらっていないんじゃないかな。
          ※
   最後の一人は…。どういえばいいんだろう?
   〔難物〕だな。…アリゾナ州トゥーソンに住んでいる八十歳に近い老人だそうだけど、とにかく、文章のスタイルが古めかしい。詠嘆が先走って、論理が追いつかない。掲載する前に、(論旨を変えないように気を配りながら、編集長が)かなり手直しをしなければならない。
   〈戦前は日本で右翼青年として少しは知られていた〉と自称している(という)ことからも察しがつくように、大変な皇国史観の持ち主で、いまでも平気で〔賢所におかれては〕みたいな文を書いてくる。編集長が〔日本=悪玉〕セオリーなら、この老人は、何がなんでも〔日本=善玉〕論を押し通す人だ。
   編集長から聞いた話だと…。この人は、日本が太平洋戦争を始める前に一度、〈スパイをするつもりで〉アメリカに渡ってきたんだけど、カリフォルニア中部の農場で〈資金稼ぎ〉に精を出していているあいだに、〈いよいよこれからスパイ活動にとりかかろうというところで〉体を悪くしてしまい、あえなく日本に逆戻りし、戦後十数年経ってから、今度は〈日本がアメリカに手ひどく負けてしまった原因を知ろうと〉(どういうわけか)メキシコ経由で陸路でアメリカへ密入国してきて、日本人庭園業者の下働きをはじめとして、ありとあらゆる手仕事をしながら、カリフォルニア、オレゴン、ワシントン、アリゾナの諸州を転々としているうちに、戦後に〔進駐軍〕の一員として広島だかにいたことがあるという白人と友だちになり、その白人のすすめでトゥーソンで日本語を教えるようになり、そのうちに永住権を取得して、そこに住みついてしまったという(ひと息ではしゃべりきれないような)とんでもない経歴の持ち主だ。
   編集長が「十数年前までは(戦前、日本に住む祖父母たちのもとに送られて、そこで日本の軍国主義教育を受け、日本人意識を頭に深く染み込ませたあと、アメリカに戻ってきた日系アメリカ人である)〔帰米二世〕がまだ数多く生きていて、元気もよかったから、その人たちを愛読者にして、あの人、〔なかなかの論客〕で通っていたようだ」と話してくれたことがあるよ。
   この人には、〔ご老人のプライドを傷つけない程度の〕謝礼が払われているそうだ。
   『南加日報』は、編集長とこの老人が共存しているあたりの、そう、ずさんさが、一つの特色でもあるのかもしれないね。
          ※
   という具合に、三人の社外〔論説顧問〕が『日報』にはいるんだけど、三人にもそれぞれ事情があるだろうし、まあ当然、毎週決まった日に原稿が届くわけではない。
   先生は、どこかの中学校で〔いじめ〕による自殺事件があったというようなときには、その事件を材料にして精力的に書きあげた原稿を数日間に何本も送ってくるほど熱心な人だけど、(この夏がそうだったように)毎年決まって〔学校が夏休みになるとスランプにおちいってしまうという困った難点〕があるんだそうだ。
   商社員は、ニューヨークやアトランタ、東京などに急に出張させられることがあるし、日本から訪ねてきた客の接待に追われることも多いから、(いかにもこの人らしく、予備の原稿がいつも用意されてはいるものの)何も書けない週が予期以上につづくこともある。
   老人は、(〈トゥーソンには、ロサンジェルスやサンフランシスコみたいには多く日本の情報が入ってこないから〉)日本やロサンジェルス(に住む友人や知人など)から送ってもらう週刊誌や月刊誌を読んで、論題を見つけ出し、一つの論題で数週分を埋めるようにしているんだけど、いつもいいネタが見つかるとは限らないし、雑誌が長いあいだ届かないこともあるんだそうだ。…老人がいまでも皇国史観みたいなものを持ちつづけているのは、日本に関する情報が比較的に少ないそんな場所で長く(たぶん、ほかの日本人たちとはあまり接触せず、そのために、精神が純粋培養されるみたいに)暮らしてきたからじゃないかな。
          ※
   そういうわけだから、月曜日の光子さんから順に、名古屋の先生、編集長、僕、商社員、老人と、いちおうは決めてあるローテーションが狂うことも多いわけだ。穴埋めに僕が原稿を書いたのも一度や二度ではないんだよ。
   でも、きょうの事情は違っていた。問題は、編集長の、言ってみれば、そう、〔わがまま〕だったわけだから。
   それに、僕は、あす掲載されることになっている僕自身の[海流]をどうしてもきょう中に書きあげておきたかった。書きあげておいて、(さっきしゃべったように)あすは残業せずに早めに新聞社を出て、早めに食事とシャワーをすませ、この日記をちょっとつけて、電話での真紀との会話を気分よく楽しみたかった。…そう考えていったん書き始めたものの、なかなか書き進めないので、ほんとうに弱りきっていた。だから、編集長の肩代わりをするゆとりなんか、僕にはまったくなかったんだ。
          ※
   〔ついでに〕がずいぶん長くなってしまったね。でも、とにかく、きょう編集長が話しかけてきたときの僕は、その〔三時過ぎ〕からのルーティーンの一つである[海流]の原稿書きに入っていたわけなんだ。
   真紀のことは何も知らない編集長は(まあ、たぶん、知っていたとしてもおなじだったろうけど)僕のその程度の抵抗にたじろいだりはしなかった。「君が書くのが遅いことはボクも知っているけど、それでも、もう書き始めてはいるんだろう?」。あの〔にたり〕笑いがいちだんと大きくなっていた。
   僕はつられて、思わず笑い返しそうになってしまった。
   「ということは」と編集長はつづけた。「少なくとも、ある程度はもう書き終えているということだよね。…最初の原稿」
   〈最初で〔最後の〕ですよ、編集長。今夜はこれ一つしか書くつもりはありませんし、あすは何も書きません。編集長の代役は今回はオコトワリです〉。胸の中ではそうつぶやいたんだけど、それは声にはならず、僕は代わりに、こうつぶやいていた。「これまでに何時間かかけたんですから、そりゃあ、いくらかは書いてますけど、その線で書き終えられるかどうか…」
   僕の言葉が切れる前に、編集長は自分の両手を打ち合わせた。「それはいいや。だったら、それを書きつづけてもらってだな、できあがったら、きょうの分として(タイピストの)田淵さんに渡してもらおうか。そうすると、読者はあしたもいつもどおりに[海流]を読むことができる。うん、それがいい。だけど、ボクら、急いだ方がいいな。版下を(中国語新聞社の)印刷所に遅れて持ち込むと、また(印刷責任者の)ウォンさんが苦情を言ってくるだろうし…。いや、そんなことの前に、原稿の出が遅いというんで、田淵さんの機嫌がちょっと悪くなりかかっているようなんだ。編集部で働く者として、ボクら、〔工場〕の人たちに嫌われない方がいいからね。…だろう?」
   〈そんな理屈はないんじゃないですか、編集長〉と僕は思った。〈〔ボクら〕ってことはないでしょう。原稿の出を遅れさせたのはだれなんです?田淵さんの機嫌が悪くなりかかっているとしたら、それ、だれのせいなんです?〉
   でも、僕がどんな表情になっているかなんて、あの人は気にしてはいなかった。「で、いま、何を書いているの?」
   この辺りが編集長の(たぶん、ずるくて)すごいところなんだよね。あの人は突然、編集長としての威厳を回復して、というか、僕に有無をいわせない、ちょっと居丈高な口調になって、そうたずねてきたんだ。
   そういう質問には僕は抵抗できないじゃない。だって、編集長は僕の原稿を手直ししたり、場合によっては、僕に初めから書き直しさせたりすることができる立場にある人だからね。僕は正直に答えるしかなかった。「恥ずかしいんですけど、また、[ドジャーズ]の野球のことを…」
   「恥ずかしがることは何もないじゃないか」。編集長の顔がまたほころんだ。…安堵したんだ。「おなじ話題に何度取り組んでもかまわないんだよ。むしろ、それが君の特徴、ということになって、読者に親しまれるんだから」
          ※
   編集長が〔安堵した〕のには理由があったんだよね。…ローカルの出来事にはまだ疎いけれども、題材が野球となると、(これまでがそうだったように)僕がまずまずのエッセイを書きあげるだろうってことが編集長には分かっていたし、僕が無難に書きあげるとなれば、自分は手直しする必要もないだろうし、僕が書きあげるまで残っていなくても(つまりは、ファースト・ストリートにあるバーにすぐに駆けつけても)いいということになるわけだから。
   「それを書きつづけるといいな」。編集長は言った。「だいたい、君は、野茂投手についてはいつも、おもしろいものを書くからな。野茂を見るときの見方が…。なかなかいいし…」
   編集長は〈見方が…〉と言ったあと、しばらく言葉が継げなかったんだよね。僕が気をよくするような、何か気のきいたことをつづけたかったんだろうけど、何をどう言ったらいいかがすぐには分からなかったんだ。…というのも、あの人は(日本人の男性としてはめずらしく)野球に関する知識の乏しい人で、たとえば、[ジャイアンツ]がセントラル・リーグに属しているぐらいのことまでなら知っているけど、[バッファローズ]がどこを本拠地にしている球団かは、もう知らないんだ。
          ※
   そんな人なのに、編集長は(野茂が絶好調だった六月の終わりごろに)一度、野茂に触れたエッセイを[海流]に書いたことがあるんだ。それも、(これじゃまずいんじゃないか、と僕が思った個所がずいぶんあったにもかかわらず)なかなかいい(というのが矛盾して聞こえるなら、そう、かなり興味深い)内容だったんだよ。
   僕のファイルの中から取り出して読んでおくと…。

   ≪*筆者はこういうのが嫌いだ。こういうのとは、日本人の態度のことだ。どんな態度かといえば…。*今年の一月、二月ごろ、彼らは何と言っていただろうか。彼らとは誰のことか。言わずと知れたこと。日本のスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たちのことだ。*あのころ彼らは、野茂は肩(肘だったかもしれない)に故障を抱えているからアメリカで成功するわけはないと言っていたはずだ。だが、彼らの冷血な悪口をものともせず、野茂は大リーグの偉大なプレイヤーたちに混じって大成功を収めつつある。彼らの予見はものの見事に外れてしまったのだ。*予見が外れたのはなぜか。答えは簡単だ。彼らが自分たちの劣等感を土台にして野茂の将来を見てしまったからだ。*劣等感?何に対する劣等感か。*アメリカに住み、アメリカを動かしている人間に対する劣等感だ。彼らはいつも、潜在意識の中で、この国の人間に劣等感を抱いているのだ。*日本のスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たちは、実は、野球を含めた多くの分野で日本人はアメリカ人には太刀打ちできない、したがって、(皮肉なことに、台湾系日本人なわけだが)日本の偉大なプレイヤーである王貞治氏が日本で何本ホームランを打っていようと、野茂はやはりアメリカで失敗する、と心の奥底で思い込んでいたのだ。*そうなのだ。彼らは、世界のホームラン記録保持者は王氏だとこれまで主張してきたし、いまもそう言い張っているくせに、心の底では、王氏の本拠地であった後楽園球場は、アメリカの球場に比べると、盆栽ほどの大きさでしかなかった、それゆえ、王氏の記録も世界記録であるとは言えないのではないか、と疑っているのだ。*それが筆者のいう劣等感だ。*間違いない。日本のスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たちは、自分たち自身が日本人の力量に自信が持てないものだから、事が現実にどうなるかを見極める前に、野茂も結局は失敗するはずだ、と決めつけていたのだ。そもそも、彼らにとって、野茂の故障は重大な問題ではなかったのだ。というより、野茂の力量がどんなものかが彼らには理解できていなかったのだ。理解できていなかったから、彼らは、一度は日本で最高の投手といわれたプレイヤーでもアメリカではしくじるに違いない、そうなれば、日本人全員が面目を失う、と考えるしかなかったのだ。*野茂の実力を冷静に分析して、この投手は日本では一、二を争うほど優秀なのだが、大リーグでやっていく力はやはりない、と判断するのはしゃくだから、肩だか肘高だかが悪いから通用しないということにしておこう、としたあたりにも、彼らのゆがんだ劣等感がよく表れているではないか。*恥ずかしい。恥ずかしい。*しかも、不幸なことに、そんなふうに考えるのはスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たちだけではない。日本に住んでいる他の日本人もみなそうなのだ。*日本人は事実を見ない。物事をあるがままには見ない。外国が絡む場合は特にそうだ。日本に住んでいる日本人たちは、自分の基準に合うように、自分たちの劣等感がそれ以上深くならないように、すべてをゆがめて見てしまうのだ。*それだけではない。野茂の成功が明らかになってから彼らが取った態度はどうだ。失敗するに決まっているとなじったこと、日本の野球を捨てる裏切り者と呼んだことについては詫びも言わず、恥じもせず、この投手にこぞって〔日本人の誇りだ〕と大声援を送り始めたのだ。*恥ずかしい。恥ずかしい。*以って学ぶべし≫
   独善的で高飛車すぎるよね。あんまり論理的じゃないよね。
   (生意気なのをかまわずに言うと)技術的には、このエッセイは欠陥が多すぎると思うよ。
   少し読めば、編集長が正確さを重視しない人だってことが、だれにだって分かるし…。
          ※
   第一に、野茂の故障が肩にあったのか肘にあったのかを編集長は知らない。はっきりさせようとは考えてもいない。〔肩(肘だったかもしれない)〕では無責任じゃない?
   いや、そもそもその前に、編集長は、このエッセイの読者の中には野茂の名前にいきなりであって〈野茂ってだれ?〉といぶかる人もいるんじゃないか、というふうに、まず、考えるべきだと思うよ。初めて野茂の名前を出したところで、たとえば、〔野茂英雄、その独特の投球フォームからトーネード(竜巻)と呼ばれている[ロサンジェルスドジャーズ]の日本人投手〕ぐらいなことは書いておいた方がいいと思うよ、僕は。…いや、すでによく知られている人物のことをあんまりていねいに説明すると、かえって変になってしまうものだけど、編集長はそれまで、野球をネタに何かを書いたことがなかったようだし、自分のエッセイの中で野茂のことに触れるのもあれがまったくの最初だったんだから。
   第二に、たまたま知っていたから〔日本の偉大なプレイヤー〕の王の名は出すけども、知識がないから〔大リーグの偉大なプレイヤーたち〕の名前は一人も書かないというのも、なんだかおかしいよね。バランスが取れていないじゃない。それに、〔王貞治氏が日本で何本ホームランを打っていようと〕と〔野茂はやはりアメリカで失敗する〕とのあいだには(理解はできるけれども)論理に大きな飛躍があると思わない?荒っぽい書き方だと思うけどな。…王氏の〔氏〕もなんだか浮いてしまっている感じだよね。
   後楽園球場を〔盆栽ほどの大きさでしかなかった〕と決めつけているのに、両翼が何メーターあったかなどを数字ではっきりさせてはいないし、アメリカの球場の大きさも書かない、というのもまずいよね。これでは比較になっていないじゃない。読者に不親切だよ。
   そうそう、ホームランの記録が問題になっているんだったら、公平さを保つために、大リーグの年間試合数は、日本のプロ野球より(昔だったら、たしか、二十四、いまでも)二十七も多いんだってことも、読者に知らせるべきだよ。…いや、それだけではないな。王の〔世界〕記録とヘンリー(ハンク)・アーロンの〔アメリカ〕記録も、両方、数字で正確に書いておく方がいいと思うよ。僕が書くんだったら、そういう数字(王が八六八本でアーロンが七五五本だったっけ?)は全部調べ出すよ。調べ出せなかったら、そのことには触れないよ。
          ※
   ところで、〔彼らの冷血な悪口〕というのは、なんだか落ち着きの悪い表現だよね。これで、筆者である編集長が、大多数の意見に(いわば)逆らって日本を飛び出してきた野茂投手に同情していることは、たしかに、よく分かるけど、[海流]は(いちおう)センセイショナリズムで売っている週刊誌やタブロイド新聞のコラムではないんだから、こういう表現はどうも…。
   エッセイ中でくり返された〔恥ずかしい。恥ずかしい〕にも、筆者自身をいきなり高所に持ち上げようとしているみたいな、(なんというか)いやらしさを感じない?
   編集長の目には、〔日本に住んでいる日本人〕は全員がおなじに見えているらしいけど、もちろん、そんなことはありえない。…決めつけが過ぎるよね。日本にもいろいろな日本人がいるんだから。それに、非難する相手を〔日本に住んでいる日本人〕に限定しているところも、僕はあんまり好きになれないな。だって、なんだか、海外、特にロサンジェルス地域に住む日本人にへつらっているみたいにも聞こえるじゃない。
   〔以って学ぶべし〕もよく分からない言い方だよ。学ばなきゃならないのは、いったいだれなんだろう?〔日本のスポーツ新聞の記者たち、野球評論家たち〕のこと?それとも、読者?筆者自身?
   いやいや、そんなこと以前に、編集長はそもそも、〔筆者はこういうのが嫌いだ〕と書きだしたとき、自分がこれから何を書くつもりなのかがちゃんと分かっていたんだろうか?〔どんな態度かといえば〕と原稿用紙に書きとめたとき、すでに野茂のことが頭にあったんだろうか。…怪しい、と思うな。
          ※
   というのは(タネ明かしみたいになるけど)、編集長は〔筆が進まないときは太平洋の向こう側に視線を向けよ〕という自ら学び出した金言を頼りにして物を書く人で、〈アメリカから日本を見れば、言いたいこと、論じなければならないことが必ず見えてくる〉と信じているんだよね。だから、これを書いたときも、〔どんな態度かといえば〕でペンをとめ、さて何を書こうか、批判(あるいは非難)しようかというんで、編集長の視線はその〔太平洋の向こう側〕に向いていたという気がするよ。〔日本のスポーツ新聞の記者たちと野球評論家たち〕をターゲットにしようというのは、たぶん、偶然の思いつきみたいなものだったんじゃないかな。〔言わずと知れたこと〕という(ずいぶんむちゃな)いい方の中に、ほら、そのことが見えていない?
   違うかな。いかにもそんなことが読めてくるような、危なっかしい書きだしだと思うけどな。
          ※
   にもかかわらず…。つまり、そんなふうに穴だらけの(『朝日』や『読売』にはけっして掲載されないような)論評だけど、編集長のこの文にはどこか、なんともいえないような魅力があるんだよね。
   少なくとも、編集長は、日本の新聞の論説員たちだったらまず気づかないか気づけないだろうことに気づいているし、そういう人たちだったらけっして書かないか書けないだろうことを正面きって、大胆に書いているじゃない。
   それに、僕にはもっと大事だと思えること。それは、編集長は〈自分の読者たちは、呼べばたちまち返事をしてくれるような近いところにいるんだ〉あるいは〈ほんものの生きた読者がすぐそこにいて、自分の文章を熱心に読んでくれているんだ〉と信じて書いている、ということ。高飛車なスタイルにもかかわらず、編集長は、そう信じて書いているよ。…そうそう、ファースト・ストリートの行きつけのバーで顔見知りを相手に持論を声高にしゃべっているような、そんな感じがあるよ、このエッセイには。
   そういうのって、いいよね。   日本のマスメディアでは、きっと、そうはいかないよ。   ここには、新聞と読者をそんなふうに親しく結びつける、体裁のいらない、温かい、ある意味では生臭い、そんなコミュニティーがまだ残っているんだよね。
   そんなふうに感じたよ、僕は。          ※
   で、話をもう一度戻しなおすと…。編集長にそんなふうに(だから、下心を丸出しにして)〈野茂を見るときの見方が…。なかなかいいし…〉とほめられても、僕はちっとも嬉しくはなかったし、〈ようし、張りきって書きあげるぞ〉とも思わなかった。